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日々生活をしていて感じたこと、思ったことなどなど、いろいろと書いていきます

ローカル・クライシス【No.4】~地域活性化の歴史~

みなさま、こんにちは

ユウジです。

 

今回も前回の続きを書きます。

前回のをまだ読んでいない方はこちらから!

 

ローカル・クライシス【No.3】 - sunflower

 

前回はここでの「地域活性化」の定義を書きました。

今回はこれまで日本で行われてきた地域の活性化政策について書いていきます。

 

外部開発型開発論から内発発展論へ

「地域の活性化」は大きな流れとして、「外部開発型(外来型)開発論」から「内発型発展論」へ転換されてきました。

「外部依存型(外来型)開発論」とは、「地域の維持・活性化を域外からの産業・企業・資本等の導入によって進めようとする考え方である[1]。」

つまり、公共事業や工場、企業の誘致などがこれにあたります。

一方で「内発型発展論」とは、「地域の企業・労働組合・協同組合・NPO・住民組織などの団体や個人が自発的な学習により計画をたて、自主的な技術開発をもとにして、地域の環境を保全しつつ資源を合理的に利用し、その文化に根差した経済発展をしながら、地方自治体の手で住民福祉を向上させていくような地域開発[2]」のことを言います。

 

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1960年代~70年代にかけての地域の活性化政策

地域の活性化策や景気対策として昔から現在までも行われているのが公共事業や工場誘致です。

公共事業は、一般道路や高速道路、鉄道などを建設する費用を国が負担して行うことによって地方の建設業者が潤い、お金がめぐって地域全体も潤うという考え方です。

国民所得倍増計画の実現のために多くの公共事業が行われてきました。

また、道路などを作ることによって、住民の生活の利便性が高まったり、他の土地から行き来しやすくなったりと観光客増加の狙いもあったのでしょう。

このような公共事業は莫大なお金が動くので一定の効果はあります。

しかし、持続性がなく、年月が経つにつれて維持費も馬鹿にできません。

高速道路が張り巡らされ利便性が向上することによってストロー現象が起こり地域から人が減った事例もあることを忘れてはいけないと思います。

以上のような行政による公共事業は60年代後半から、70年代に多く行われてきました。工場誘致は地域活性化手法の元祖ともいえる方法です。

 

地域間格差の是正と均衡ある地域発展のために、工場を日本各地に分散させました。工場を地方に分散させることで地方での雇用確保や所得向上に貢献してきた面があります。しかし、石油ショックをきっかけに、地方にある工場では経営の合理化が求められて、工場の撤退や縮小が相次いで起こりました。

また、都市部においても同様に雇用調整によって地方に戻らざるを得ないような状況にもなりました。この時期には地方の人口が増え、公共投資で高速道路などが整備されていたから、観光客の増加にもつながりました。

 

80年代~現在の地域の活性化政策

80年代は、重厚長大型産業から軽薄短小型産業に産業構造が変化しました。先ほど説明したように地方の工場などは減少したため、再び東京への一極集中が進みました。

日本全国の均衡ある発展を目指すために、テクノポリス法やリゾート法を制定し、産業の地方分散を図る政策が実施されることになります。

しかし、バブルが崩壊し、これらの政策も失敗に終わってしまいました。

90年代後半からは官民連携や官学連携、産官学連携など行政だけでなく民間や大学などと連携して地域活性化が行われるようになってきました[3]

手法は商店街の活性化や地域ブランド戦略などがあります。

00年代からはNPOのような新しい主体が地域の活性化、地域活性化にかかわるようになってきましたよね。

 

 

1960年代から行われてきた地域の活性化手法も大きく変化し、それまでの地域経済を活性化するような取組ではなく、地域の住民、コミュニティなどに焦点をあてて活性化するものが多くなってきたように思います。

 

 

[1] 橋本卓爾、大泉英次『地域再生への挑戦~地方都市と農山村の新しい展望~』、2008年、日本経済評論社、37-38頁

[2] 宮本憲一『環境経済学―新版―』、2007年、岩波書店、316頁

[3] 尾崎雅彦、中西穂高編『地域経済活性化要因の研究』、2011年、独立行政法人経済産業研究所、2-4頁

 

 

では!